江戸川乱歩は、大正から昭和初期に活躍した、「日本推理小説の祖」とも呼ばれる作家です。児童向け文学も数多く手掛けており、少年探偵団シリーズを子供の頃に夢中になって読んだという方も多いのではないでしょうか。
地域の人々にもあまり知られてはいませんが、彼もまた、修善寺温泉とゆかりのある作家のひとりです。
乱歩の代表作でもある『怪人二十面相』は、名探偵明智小五郎と小林少年率いる少年探偵団が、変装の達人・怪人二十面相に挑む少年少女向けの推理小説です。ほとんどの事件は東京で繰り広げられますが、「美術城」からはじまるあるひとつの事件では、伊豆が舞台として登場します。
物語は修善寺温泉から南に4キロほど南の村に住む美術蒐集家・日下部左門に怪人二十面相から挑戦状が届くところから始まります。慌てふためく左門は、数日前の地方新聞『伊豆日報』の消息欄に明智小五郎が修善寺を訪れているという記事があったのを思い出します。
明智小五郎氏来修
民間探偵の第一人者明智小五郎氏は、ながらく、外国に出張中であったが、このほど使命をはたして帰京、旅のつかれを休めるために、本日修繕寺温泉富士屋旅館に投宿、四—五日滞在の予定である。
記事を確認した左門は、「これだ。これだ。二十面相に敵対できる人物は、この明智探偵のほかにはない。」と急いで修善寺に向かいますが——続きはぜひ作品を読んでお楽しみください。
『怪人二十面相』より、伊豆修善寺の富士屋旅館の裏手の谷川で魚釣りする明智小五郎を尋ねる日下部左門の挿絵。
(江戸川亂歩 著『怪人二十面相』,大日本雄辯會講談社,1936.12. 国立国会図書館デジタルコレクション)
(江戸川亂歩 著『怪人二十面相』,大日本雄辯會講談社,1936.12. 国立国会図書館デジタルコレクション)
江戸川乱歩というペンネームの由来が、世界初の推理小説と言われる『モルグ街の殺人』を書いたエドガー・アラン・ポーだというのは有名な話です。本名は平井太郎といい、父方・平井家の先祖は伊豆・伊東の郷士で、その縁もあってか、度々伊豆を訪れています。
自伝『探偵小説四十年』によると、最初の伊豆訪問は、大学卒業後に就職した会社を一年ばかりで無断退職した直後のこと。お金が尽きるまで伊豆の温泉地を放浪します。途中、伊東の温泉宿で谷崎潤一郎の『金色の死』を読むと大変気に入り、これをきっかけに谷崎、芥川、佐藤、宇野らの愛読者になったそうです。
再訪するのは、32歳の時、専業作家になった翌年のこと。長編の3本同時連載を開始したものの行き詰まり、編集部の原稿催促から逃げ回るように伊豆の温泉を転々とします。まるで重罪犯人が警察の目をのがれて放浪しているような思いだったと振り返っています。
還暦の歳、昭和29年には、『修善寺物語』を記念する「綺堂祭」のため、捕物作家クラブに同行し修善寺を訪れます。修禅寺での法要ではスピーチをしたり、夜には町の芝居小屋で作家画家の歌合戦にも出場。乱歩自身は不参加だったものの、変装した作家たちを見破る懸賞をかけた企画もあったとか。
同年の秋には、小説の構想を練りに伊東へ滞在。その際に先祖のお墓を建てた東向寺(とうこうじ)が現存していることを知り、伊東と修善寺の間にある冷川村にも足を運びます。様々な資料を見せてもらい、その後、『わが夢と真実』に「先祖発見記」として家族の歴史を書き記しました。
乱歩は修善寺温泉では仲田屋旅館を常宿とし、「桜」と名付けられた205号室を好んでいたそうです。仲田屋旅館は、明治初期から2004年まで営業をしていた、岩窟を開いて浴槽とした「岩の湯」が有名な木造三階建ての大きな旅館です。
仲田屋の記念絵葉書より、とっこの湯越しに望む当時の旅館全景。
(提供:伊豆市観光協会 修善寺支部)
滞在時のエピソードは残念ながら見つけることができませんでした……が!家族で滞在した際に撮影された写真と直筆サインを、修善寺温泉旅館協同組合の植田さんが探し出してくれました!
仲田屋の玄関先で撮影された家族写真
(提供:修善寺温泉旅館協同組合)
仲田屋旅館の廃業後、当時の趣を残しながら建物はリニューアルされ、現在は1階部分で飲食店や地域作家のギャラリーショップが営業されています。
例年2月には、大正から平成までのお雛様を展示する「女将のもちより雛」が開催されます。当時の部屋は現存してはいないものの、乱歩が滞在時に眺めたであろう視点で修善寺温泉を楽しむことができますので、ぜひ足をお運びください。
*アイキャッチ画像の出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」