ぶらり文学散歩:萩原朔太郎編 案内人・勝野美葉子

萩原朔太郎は、大正・昭和時代に活躍した群馬県出身の詩人です。詩集『月に吠える』で口語自由詩を確立したことから「日本近代詩の父」とも呼ばれています。また、朔太郎は修善寺ゆかりの芥川龍之介や江戸川乱歩とも深い交流がありました。


大正末期、朔太郎は詩人団体「詩話會」の旅行で伊豆を2年連続で訪れ、修善寺温泉にも宿泊しました。この時の記録は、大衆娯楽雑誌『キング』に「詩壇八大家合作 伊豆の旅」として、収録されています。

大衆娯楽雑誌『キング』 (第2巻第7号, 講談社,大正15年刊行)に掲載されてた「伊豆の旅」のページ。
萩尾朔太郎が自身のエッセイ「大船驛で」に寄せたイラスト。※スペースの都合で位置を変更しています

そして、この旅行で見た下田と修善寺の風景を後に朔太郎は次のように書き記しています

下田に着く。港に昔の如き黒船あり。町屋は全て重苦しき土蔵造りで、屋根に葺き窓をあけてる。江戸末期の錦繪に見る唐風和蘭陀情趣の古く煤ほけた面影がある。思ふにこの景、伊豆南方の特色だらうか。行きに修善寺温泉でもそれを見た。そこでは町の川添いに櫻がさて、古風な黒い土蔵造りが、窓を唐風のぎやまん館に切りぬいて居た。家の上に旗が立つて、それに文化倶樂部と書いてあつた。案内は青みある瀬戸張りで、ひろびろと金魚が泳いでゐるらしい。修善寺の文化倶樂部は嬉かつた。

(『萩原朔太郎全集』第8巻 (エッセイ )、筑摩書房、1976より一部抜粋・初出『文芸倶樂部』第11巻第7号、大15)

他にも、伊豆旅行で見た冬の桜や石楠花がよほど印象的だったのか、旅行から10年を過ぎた頃にも次のように振り返っています

よほど前の事であるが、自動車で天城を越えて、伊豆の湯ケ島溫泉へ行つたことがある。東京はまだ冬の嚴寒の眞中であつたが、伊豆には既に春が來て、天城の山の谷間には、麗らかな陽ざしが流れ、所々に山櫻が咲いて居た。僕は櫻といふ花を、それまで都會でしか見たことがなかつた。都會で見る櫻といふ花は、妙に白つぽけて薄汚く、群集の雜閙の中で埃にまみれ咲いてゐるところの、不快な病的の印象をあたへるので、僕の大嫌ひの花であつたが、天城の山中で見た山櫻は、僕の櫻に關する先入見を、すつかり一變させたほど美しく優雅であつた。「久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ」なんて歌の情趣もその時初めて納得された。都會の櫻を見て居ては、到底こんな詩想は浮べられない。

湯ケ島の旅館で、窓から見た前庭の石楠花も忘られない。その部屋は母屋から獨立して奧深く小ぢんまりとした六疊だつたが、若山牧水が久しく滯留してゐた部屋だと言ふ。その部屋の窓から、前庭の花を見て、旅泊の侘しさを慰めてゐた牧水のことを考へ、僕もふしぎな旅の侘しさを惑じた。一體、旅館の中庭に咲いてる花といふものは、石楠花に限らず、すべて妙に物なつかしく、印象的で、旅の侘しさを感じさせるものである。先年、關西の田舍に旅行して、或る貧しい村の汚ない旅館に宿泊したが、その農家風の家の中庭に赤々と咲いてる鷄頭の花を見て、言ひ知れず侘しい旅愁を深く感じた。

(萩原朔太郎 著『日本への回帰』、白水社、昭13より一部抜粋)

〈萩原朔太郎と 芥川龍之介 〉

朔太郎一家は上京後、芥川が居住していた東京・田端へと1925年(昭和1年)に引っ越します。

そのことを修善寺温泉滞在中に知った芥川は、共通の友人である室生犀星宛てに「東京へ帰つたら是非あひたい。(中略)僕の小説を萩原君にも読んで貰らひ、出来るだけ啓発をうけたい。なんだか田端が賑になつたやうで甚だ愉快だ。」と、大いに喜んだ様子の書簡を出しています。

そのわずか2年後の1927年(昭和2年)の夏。梶井基次郎や三好達治、淀野隆三と知り合うことにもなった湯ヶ島での滞在中に、芥川が自殺をしたとの知らせが届きます。

親交を深めた期間こそ短かったものの、朔太郎は「あらゆる他のだれよりも、すべての彼の友人中で、自分が最も新しい、最近の友であつた」、「萬感胸に充ちて、今尚私は哀悼の言葉を知らない。思ふに故人のあらゆる友人は、だれしもこの感情に於て同じだらう。けれども私の哀悼は、それらの人々の中にあつてまた別である。實に久しい間、私は自分の胸中を打ちあけて語るべき、眞のよき友人を持たなかつた。稀れに芥川君を友に得たことは、自分の物寂しい孤獨の生活で、眞に非常な悦びであり力であつた。」との言葉を残しています。



〈 萩原朔太郎と江戸川乱歩 〉

朔太郎は探偵小説の愛好家として知られており、探偵や殺人事件をモチーフにした詩もいくつか発表しています。乱歩とは直接の交流を始める以前から、お互いを高く評価し合っていました。朔太郎は乱歩のデビューからわずか3年後に「私の嘱望する新作家」というアンケートで筆頭に乱歩の名前を挙げるなど、早い段階から注目していたことが窺い知れます。乱歩は朔太郎の数少ない小説「猫町」を偏愛しており、「私はこの怪談散文詩をこよなく愛している。朔太郎の詩集や数々のアフォリズムと同様に、或はそれ以上に愛している。」と述べるほど。

初対面は、1931年(昭和6年)の浅草、朔太郎が面会を求めて手紙を出した数日後のことでした。情意投合したのふたりは廻転木馬に乗ったり、喫茶店で博覧会の余興や昔のパノラマ館の魅力、それらの醸し出すノスタルジアについて語りあったと、楽しく過ごした様子が乱歩の自伝や朔太郎の書簡に残されています。

パノラマや手品などの共通の趣味趣向を持っていたふたりは、その後も朔太郎が亡くなる前年までの10年ほどの間に親交を深めていきました。

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修善寺温泉・住民発のローカル文芸マガジン『湯文好日』編集部です。様々な文芸作品を通じ、 季節や時代を超えて、 修善寺温泉を楽しんでいただけるようなコンテンツを発信しています。

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