修禅寺から県道18号線を5分ほど西に向かうと、温泉場から少し遠ざかり生活の雰囲気や畑が見え始めます。源範頼の墓を目指し急峻な坂を登ると石畳に竹垣、棟門(なむもん)が迎えます。暖簾をくぐると庭木や石畳の奥に築110年以上の日本家屋が構えます。ここは小高い山の中腹で景色と庭と建築、そして甘味を楽しめる「茶庵 芙蓉」です。
源範頼の墓の隣にある茶庵 芙蓉の入り口。石畳を含めた庭は伊東の庭師によって施工された。遠上氏が住んでいた頃は写真左側に居間と台所の母家があった。玄関の沓脱石は若草石と呼ばれる伊豆石。入店の際は銅鑼を叩いて知らせる。
この建物は陸軍大佐であった椙原透(すぎはらとおる)氏の別荘として明治時代に建てられたと言われており、現在のオーナーである大杉氏の曽祖母の佐久(さく)氏が受け継ぎました。建物はほとんど手を加えず当時のまま残っています。玄関のすぐ隣には茶室、その奥に居間と仏間があり、三つの間の小さな建物です。大杉氏の祖父母(以下、遠上氏)は茶道・華道・琴の先生であり、茶室は稽古の際に使用されていました。温泉場のお嬢様たちは花嫁修業のため稽古に通っていたそうです。
遠上氏が住んでいた頃は現在の庭の部分に居間と台所の母屋があり、この建物は離れとして、茶室は稽古場、居間は寝室として使われていました。大杉氏は子供の頃にこの場所に泊まりに行くと夜は雨戸を閉めて寝るため、目が覚めると朝か夜かわからないほど真っ暗で怖かったそうです。当時は浴室がなかったため、共同温泉の真湯(しんゆ)に通っていました。仏間は畳敷でしたが、茶庵の厨房として使うために板間となりました。8畳の居間は三面開口の開放的なつくりで、北側と床脇の窓は障子戸です。
襖の鴨居に掲げられている書は佐久氏から受け継がれているもので、書家の前田黙鳳(まえだもくほう)によるものです、巧みであるよりも愚直に徹すること、正直にあたることを意味する「守拙(しゅせつ)」が書かれており、佐久氏はこの住まいを「守拙庵」と呼んでいました。縁側の板張りは遠上氏が雑巾掛けをしていたそうで、美しく経年変化した床板は浮造りのように木目が浮き出ています。四畳半の茶室には躙口(にじりぐち)もついています。掛け軸は丘球学(おかきゅうがく)(1915年修禅寺38代目住職)の「喫茶去(きっさこ)」です。佐久氏は丘球学と交友があり、掛け軸や書を多数残しています。
縁側に面した庭は当時のまま。南面は一面ガラス戸で開放的。手前に茶室の濡れ縁、奥に居間。庭には低木が植えられ開放的であるが、茶室は木々に隠れるように建つ。シンプルな一棟の家屋に植栽で場所性をつくる。
居間から庭を眺めると大きな芙蓉の木があります。芙蓉の木周辺の池と、入り口付近の井戸周辺の池にはかつて山から水が流れていました。大杉氏が子供のころは洗面台がなかったため、庭に出て山の水で手を洗っていました。庭の改修とテラス設置は2022年におこない、庭は伊東の庭師さんによって施工されました。元からあるものを活かし、新たに加える石畳や柱状節理の石柱は古材を使っており、古くからそこにあったかのような佇まいです。各所に配置してある盆栽は大杉氏の夫である雅祥園(がしょうえん)の作品です。テラスからは温泉場中心地から少し離れた静かな雰囲気と桂川がつくった河岸段丘の地形が望めます。
これほど古い建物が健やかに使い続けられるのは、当時の技術の良さや日当たりなどの立地の良さはありますが、最も大切なことは使う人の過ごし方です。日本の風土に適した伝統的な設備が多く見られ、それらは人の生活に呼応しています。衣服を衣替えするように外周の窓は夏には簾戸、冬にはガラス戸と障子戸に建具替えをします。縁側の鴨居上部には無双連子窓(むそうれんじまど)があります。同じ間隔で板を打ちつけた二組の縦格子(連子)を外側は固定、内側は引戸にし換気や採光のための開閉ができる仕組みです。夏は開け放し、蚊取り線香を焚き、冬は火鉢で暖まる。換気窓は冬の暖房時にも効率的に空気を循環できます。春や秋の穏やかな気候には窓を開け放し、外部の空気と室内が一体となる心地よさはひとしおです。
8畳の居間は文道棚の床脇にも窓が設けられ、三面開口の開放的なつくり。中央と左の窓は障子戸。庭の芙蓉の木を観賞できる。ガラス戸の鴨居上部には無双連子窓が開いている。縁側の向こうは修善寺の山々が望める。
これまでの長い歴史の中、日本の建築は高温多湿の夏をいかに快適に過ごすかという課題に向き合ってきました。夏は開け放ち、冬は閉じる。南側の軒を深くし、夏は日光を遮り、日が低い冬は日光を取り入れる。縁側というバッファーゾーンを設ける。これらは長らく木造建築で取り入れられてきた解決策の一部です。現代では内外を切り分け気密性を高めて室内の快適さをつくることが一般的になりました。四季に合わせて住まいのしつらえや習慣を変えることは、現代では失われつつあります。環境と結びつきながら柔軟に変化できる生活様式は、後世に残すべき日本の風土をあらわす振る舞いです。
四畳半の茶室。左側に躙口。掛け軸の「喫茶去(きっさこ)」は丘球学(おかきゅうがく)によるもので「お茶をどうぞ」の意。
縁側のガラスは当時のガラス製造ならではの均一ではない歪みがあり、外の景色が波打つ。
平面スケッチ。各部屋の縁側に飛び石が続いており、茶室は躙口へも続いている。
歴史ある建物、建物への敬意、そして日本の風土にあった建物への振る舞い。茶庵 芙蓉は、それらが調和して保たれている修善寺の名建築です。
茶庵 芙蓉
竣工:明治頃
設計:不明
住所:伊豆市修善寺1082
営業時間::金土日月 10時から16時 (不定休あり)
電話:0558-72-0135