放送日:2025年1月10
テーマ:湯治文化の変遷と湯治客のごはん事情・芥川龍之介のモダンな朝食
伊豆市のコミュニティーFM・FMISの番組「修善寺温泉 湯けむり談話室」の構成台本用のメモを、参考資料のリンクなどとともに記録に残しています。
メインパーソナリティ:勝野美葉子(修善寺燕舎)
サブパーソナリティ:鈴木創・飯島渉琉(FMIS)
湯治文化の変遷①
湯治って?
湯治とは、温泉に入って、病気の治療や健康の回復を図ること。時代や地域、それぞれの温泉によって違いはあるが、湯治を行う期間や入浴作法などはおおむね決まっていた。eg.「湯治は、七日一回り、三回りを要す」、7日で1周する入浴回数のパターンを3回繰り返すと良いという考え方。(1日目は入浴1回、2日目は2回、3日目は3回、4日目は休養。5日目から3回、2回、1回と減らしていく。)
聖徳太子も湯治をしていた?
596年に「伊豫温湯(いよのゆ)」(現在の道後温泉)へ。現存はしていないが、石碑も建てた。日本書紀にも、天皇や皇族が、「伊豫温湯(いよのゆ)」 や「紀温湯(きのゆ)」(現在の白浜温泉)へと長期間湯治に出かけたという記述あり。
平安時代)
公家、僧侶、武家といった各階層の人々に、湯治が徐々に広まる。
鎌倉時代の初め)
禅宗が広まって以来は禅僧も湯治を行う。湯治の合間に温泉地近辺の名所を歩いたり、詩会などの催しを開くこともありました。同じく湯治に訪れる公家の人々などとの交流もあいまって、温泉が文化的な社交の場として機能する一面もあったらしい。
戦国時代)
戦国大名たちは自らの領内に温泉を整え、合戦で傷を負った兵の療養に活かしたといわれている。
湯治文化の変遷②
庶民への普及と学問としての盛り上がり・娯楽を含む短期の観光旅行へ
江戸時代)
都市部の庶民まで温泉の利用が普及。温泉案内の書物や図版が出版されるようになり拍車をかける。湯治、転地療養、物見遊山(ものみゆさん)の目的。
江戸時代後期)
伊勢参りなどの途上で立ち寄る団体客をはじめ、ごく短い滞在で済ませる旅客が増加。
当時は、旅人と湯治客の宿泊施設が分けられていた。(旅人は宿場町の旅籠 (はたご) に、湯治客は温泉宿に。旅人が温泉宿に1泊2日で泊まることは許されず、また旅籠に連泊することは、病気などのやむを得ない理由がない限りは認められませんでした。温泉宿は、湯治目的の長期滞在者だけの宿泊施設だった。)
スタイルの変化で「一夜湯治」も事実上公認され、湯治場だった温泉地が観光地化していく。
+温泉の特徴とその良し悪しを論じたり…学問としての盛り上がりをみせる。
明治時代)
温泉は行政の管理下に置かれる。温泉の成分を分析などをすすめ、効能を追認。交通網の整備、メディアの発達で、人々も娯楽を求め始め、湯治場から観光地・保養地に変化。
湯治している間の食事
江戸時代)湯治客の自炊が一般的。明治時代以降も同じく。食材は持ち込み、宿屋に物売りが来たり、近場で購入して自分で料理する。お客さんが自炊で調理した料理を交換することも。
大正時代)
「旅籠式」と「自炊式」の2通り。旅行者が好きな滞在方法を選択できた。旅籠式には「宿賄=価格に応じて旅館が定めた料理を2食もしくは3食提供」と「伺ひ賄=旅行者の好みをに応じて、1日3食を提供する形式」。宿泊が短期化していくと、次第に1泊2食付きのスタイルに。*温泉地滞在における「食」の役割とその変容─近世から近代にかけて─(内田 彩/温泉地域研究 第29号)
芥川龍之介の食事事情
長期滞在大正14年(1925年)の4月。修善寺駅が開業した翌年、新井旅館の月の棟で1ヶ月ほど過ごす。
朝 牛乳一合、玉子一つ、バナナ三本、珈琲
晝 茶碗盛り或は椀盛り さしみ
晩 同上。外に生椎茸、蕗の煮付け。
晝と晩とは違ふ事もあるが大體こんなものを食つてゐる。食後角砂糖三つか四つ。こいつは癖になつた。菓子など菓子屋の前を通っても買ふ気にならん。
参考・出典資料:
・国立国会図書館 本の万華鏡, 第23回 本から広がる温泉の世界
https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/23/1.html
・温泉地滞在における「食」の役割とその変容─近世から近代にかけて─(内田 彩/温泉地域研究 第29号)
https://onsenmeeting.com/archives/4668