放送日:2025年3月14日
テーマ:大正ロマンを代表する画家・竹久夢二と修善寺温泉
伊豆市のコミュニティーFM・FMISの番組「修善寺温泉 湯けむり談話室」の構成台本用のメモを、参考資料のリンクなどとともに記録に残しています。
メインパーソナリティ:勝野美葉子(修善寺燕舎)
サブパーソナリティ:鈴木創・飯島渉琉(FMIS)
竹久夢二 基本情報
大正時代を代表する画家として広く知られている。(大正ロマン=夢二、世代を問わず人気も高い。)
美人画で一躍有名になり、大きな眼とほっそりとした身体つきで、和服を着こなしながら西洋の影響を受ける夢二の描く美人画は「夢二式美人」と呼ばれた。
詩、歌謡、童話などの創作も手がけるマルチな作家。自著六十冊のうち童謡、童話、絵本などこども向けの文筆作品は三分の一にものぼる。また、書籍の装幀や日用雑貨のデザインも多く手がけ、日本の近代グラフィック・デザインの草分け的な存在でもある。
夢二と修善寺温泉の繋がりを知ったきっかけ
修善寺燕舎には私(店主・勝野)の趣味で夢二の商品を置いているが、大正ロマンの雰囲気が魅力的なのはもちろん、夢二が修善寺にゆかりのある人物だから。
*修善寺温泉の高台にある甘味処・茶庵芙蓉さんの玄関先にも、夢二の絵が飾られている。明治時代の古民でお庭も素敵な一推しのお店。
燕舎をして間もない頃、日本で唯一の竹久夢二専門画廊・港屋さんが、夢二研究家の方からだと『夢二日記』内の修善寺滞在の箇所を共有してくれた。

修善寺を訪れたのは恋人・彦乃との逢瀬のため
彦乃は夢二のファンであり、夢二が日本橋に開店した「港屋絵草子店」を訪問したことがきっかけで交際が始まる。しかし、彦乃の父親は、彦乃に許嫁がいること、夢二にはすでに前妻との間に二人の子供がいること、12歳の年齢差あることなどから、夢二との交際を断固として禁じた。
が、暗号のように互いの名前を変えての文通を続け、逢瀬を重ねて愛を育む。その場の一つとして選ばれたのが修善寺だった。修善寺での4日間が、『夢二日記』には記されている。
大正6年(1917年)1月4日、夢二が単身修善寺へ
初日)「疑雨来館(ぎうらいかん)のだや」に宿泊。
京都から沼津、三島を経由してひとりで修善寺に向かう。この頃、夢二は彦乃を東京に残して単身京都へ移り住んでおり、間の修善寺で落ち合うことに。彦乃と合流するのは、夢二の到着から4日後のこと。

疑雨来館:
かつての観光名所「白絲の瀧」の崖上に位置していた旅館。跡地は現在有料駐車場になっている。客室と川とがとても近く、枕元に激しく雨が降る音が、本当に驟雨*(しゅうう/にわか雨)が降ってきたかと疑うほどだったことから名付けられた。尾崎紅葉が名付けたという説もあるが出どころは不明。
*驟 意味:①はしる。ウマが速く走る。「驟馳(シュウチ)」 ②はやい。すみやか。 ③にわか。とつぜん。「驟雨」 ④しばしば。たびたび。
2,3日目)「菊屋旅館」へ宿をかえる

2、3日目にについては、特に何の記録もなし。
4日目)待ちに待った彦乃来修の日
朝、「アサ十ジニミシマヘツクトマレマセン」と、電報が届き、三島に迎えに出向く。当時の終点・大仁駅で合流し、愛用のカメラで写真撮影をしてから修善寺に馬車へ戻る。
夢二と写真:夢二は当時、世界的に人気のあったベスト・ポケット・コダック(通称"ベス単")というアメリカ製の小型カメラを愛用し、実に2614枚の写真を11冊のアルバムに遺している。( 株式会社港屋HP 夢二と写真より, https://yumeji-minatoya.co.jp/hpgen/HPB/entries/30.html)
たったの数時間一緒に過ごして、揃って修善寺を発つ。三島で別れる予定でしたが、夢二はよほど名残惜しかったのか、結局鎌倉まで切符を買っている。
修善寺を描いた作品こそないけれど、この詩は修善寺での逢瀬を綴ったのかも…?
彦乃はこのあと、結核で23歳と若くして亡くなる。彦乃の死後、夢二が刊行した『山へよする』には、明示されていないものの、修善寺での逢瀬を綴ったかと思われる章がある。真相はいかに。
そして、三島で撮ったという写真が残っているのか、見つけ出せたらとても嬉しい。

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