ぶらり文学散歩:芥川龍之介編 案内人・勝野美葉子

芥川龍之介が修善寺に長期滞在したのは大正十四年(一九二五年)の四月のこと。修善寺駅が開業した翌年、新井旅館の月の棟で一ヶ月ほど過ごしました。

昭和初期頃の修善寺温泉場の様子

芥川が滞在中に書いた多くの書簡(手紙)から、どのように修善寺で過ごしていたのかを窺い知ることができます。心身の疲労を癒すために来たものの、出版社からの原稿の催促に追われたりと仕事ばかりしていたようです。その忙しさは、「恐らくはここに命を落とした範頼だの頼家だのにしても、もう少し気樂だつたらうと心得ます。」と書き残すほど。
書簡には度々絵も添えられていました。前ページ口絵の「修善寺画巻」も芥川によるもの。部屋に沢山の本を持ち込み、一人静かに過ごす自身(澄江先生=芥川の号)の様子や、時を同じくして新井旅館に滞在していた小説家・泉鏡花夫妻の姿も描かれています。

また、日々の食事については次のように書かれています。

朝 牛乳一合、玉子一つ
          バナナ三本、珈琲
 晝 茶碗盛り或は椀盛り さしみ
 晩 同上。外に生椎茸、蕗の煮付け。
晝と晩とは違ふ事もあるが大體こんなものを食つてゐる。
 食後角砂糖三つか四つ。こいつは癖になつた。菓子など菓子屋の前を通っても買ふ気にならん。


芥川は果物好きで、一番の好物は無花果とのことですが、酸味のない柿や干し葡萄、龍眼肉、そしてバナナがいいと、「私の生活又」(『文章倶楽部』一九二五年)の中で言及しています。
修善寺に素泊まりでお越しの際には、芥川と同じメニューの朝食を食べて、文豪気分で一日を過ごしてみてはいかがでしょうか。

大正時代の新井旅館の様子。「華の池」と名付けられた鯉の泳ぐ池を宿泊客が眺めている。
芥川が修善寺での滞在中に食べていた朝食を、書簡の記述を元に再現。


新井旅館への滞在中に、今は客もいなくて静かだからぜひ修善寺に遊びに来ないかと妻・文と叔母・富v貴に当てた手紙がこちら――

四月二十二日修善寺から。
芥川文、芥川富貴宛

改造の紀行、文藝講座、文藝春秋、女性、とこれだけ書いた。今文藝講座をもう一つ書いてゐる。まだその外に鶴田の爲に「平田先生の飜譯」と云ふものを書いた。根本(女性)と鶴田の所の男とつききりだつた。泉さんの奧さん曰「あなた、何の爲に湯治にいらしつたんです?」二階の壁ぬりや庭も出來つつあるよし、おぢいさんいろいろお骨折りの事と存ずよろしく御禮を申されたし。
八洲の所へ行つたのなら、八洲の事をもつと詳しく書け。あちらから甘栗を貰つた。原稿ぜめでまだお禮も出さない。これと一しよに出す。但し栗はみんな食つてしまつた。
それから今客がなくて閑靜故、をばさん、おばあさん二人でちよつと遊びに來ないか。汽車は十二時キツチリの明石行にのると四時ツマリノリカヘハ三十九分に三島へつく。三島へついたらプラットフォームの向うに側に修善寺行の輕鐵がついてゐる故、それへ乘れば六時には修善寺へつく。修善寺驛から新井までは乘合自働車、人力車何でもある。時間がわかれば僕が迎ひに出る。
切符は東京驛より修善寺迄買つた方がよし。(三島迄買ふと又買はねばならぬから面倒臭い。東京驛で修善寺までのを賣つてゐる)


來れば一しよに鎌倉まで歸る。修善寺も湯が昔から見ると、へつたよし。それでも唯今風景は中々よろしい。考へてゐると億劫だが、汽車にのつて見れば訣なしだ。シヤ官や植木屋位文子にまかせておけばよろし。シヤ官はもうすんだらう。
泉さんはあしたかへる。奧さん中々世話やきにて菓子を買つてくれたり、お菜を拵らへてくれたり、もう原稿はおよしなさいなどと云ふ。下齒が上齒よりも前へ出てゐるお婆さん也。泉さんは來て腹ばかり下してゐる。床をしきづめにしてごろごろねてばかりゐる。誰も來なければ月末にかへる。をばさん、おばあさん、ちよいと二三日お出でなさい。このお湯は


言ふ風に山なつてゐて水族館みたいだ。手これだけでも一見の價値あり。この家も


と言ふ風に建つてゐる。僕は花月の五番卽ち三階にゐる。

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修善寺温泉・住民発のローカル文芸マガジン『湯文好日』編集部です。様々な文芸作品を通じ、 季節や時代を超えて、 修善寺温泉を楽しんでいただけるようなコンテンツを発信しています。

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