泉鏡花は、夏目漱石や芥川龍之介と同じく明治期に活躍した文豪です。幻想的な作風で知られ、妖怪や幽霊を題材とした不思議な世界観の小説や戯曲も数多く残しています。
本名は泉鏡太郎ですが、修善寺とゆかりの深い尾崎の元で修行し、筆名「泉鏡花」を与えられました。
芥川龍之介が描いた新井旅館に滞在する鏡花夫妻の様子。(鏡花先生同令夫人御幽棲之図|『芥川竜之介全集』第18卷 出版社:岩波書店)
鏡花は大正から昭和にかけて度々修善寺温泉を訪れました。大正14年に新井旅館に夫婦で滞在した際の様子は、同時期に宿泊していた芥川の残した書簡に描かれています。晩年は、特に伊豆を好んだようで、毎年、決まって初夏や秋、またはその両方の季節に修善寺か熱海へと足を運んだと自筆の年譜に記録が残されています。
そして、自身の修善寺で過ごした日々を元にしてか、『山吹』、『雨ふり』、『半島』、『若菜のうち』、『斧琴菊』など、修善寺を舞台とした作品をいくつも書いています。鏡花の逝去後、妻・すずが発見した無題の原稿も、修禅寺・奥の院を舞台にしたものでした。
左から二番目、姉さんかぶりの男性が鏡花。新井旅館の三代目館主・相原沐芳夫妻らとともにわらび狩りに出かけた際の様子。(新井旅館提供)
夏目漱石に天才と評され、『山月記』の中島敦をして「日本人に生れながら、あるいは日本語を解しながら、鏡花の作品を読まないのは、折角の日本人たる特権をしているようなものだ。」と言わしめた鏡花。読んでみようと、いざ手に取ってみると古文調の文体で書かれたものや難しい表現が多く、難しいと感じる人も多いと思います。鏡花作品の難解さに関して、志賀直哉は「泉さんの文章は普通難解なものとされてゐるが、難解なりに不思議な魅力があり、読者はそれに惹きつけられる。」という言葉を残しています。わかるようなわからないような曖昧な時間も楽しみながら、ゆっくりと読み進めていくのがおすすめです。
彼が修善寺をどのような言葉で描いたのか、浪漫的で情緒的な「鏡花世界」を、ほんの少しだけのぞいてみましょう——
時節は秋の末、十一月はじめだから、……さあ、もう冬であった。
場所は——前記のは、をる、の奥の院へ行く本道と、渓流を隔てた、川堤のだった。これはへ向って、ずっと滝の末ともいおう、瀬の下で、いの街道を傍わきへ入って、の中を、小路へ幾つかりつつった途中であった。
上等ので、今日も汗ばむほどだったが、今度は外套を脱いで、杖のには引っ掛けなかった。ると、を抜いて来たと叱られようから。
は、道端のを覗のぞき松の根をった、の、茎の細いのを摘んで持った。これはにも懐にも入らないから、何に対し、に恥ていいか分らない。
「マッチをあげますか。」
「先ず一服だ。」
ののかわりに、稲の甘いが耳まで包む。日を一杯に吸って、目の前の稲は、とろとろと、で居眠りをするらしい。
向って、外套の黒いと、青いで腰を掛けた、むらのって輝く穂は、キラキラとの波である。
預けた、竜胆の影が紫ののように穂をすいて、昼の十日ばかりの月が澄む。稲の下にもの中にも、のくように、ちちろ、ちちろと声がして、その鳴くのに、静まった草もみじが、そこらのあとにこぼれたの落穂とともに、風のないのに軽く動いた。
を見ると、だという、煙突が、豚の鼻面のように低くいて、むくむくと煙をくのが、黒くもならず、青々とって、空なる昼の月にく消える。これも夜中には幽霊じみて、旅人をかそう。——というのがの山のに、黙ったのように羽を重ねた。
(『若菜のうち』より一部抜粋)
もう温泉場からその釣橋へ行く道の半ばからは、一方が小山の、左がれを間にして、田畑になる、橋向うへ廻ると、山の裙は山の裙、田畑は田畑それなりの道続きが、りして向うに小さな土橋の見えるあたりから、から静かな寂しい参拝道となって、次第に俗地を遠ざかる思いがるのである。
土地では弘法様のお祭、お祭といっているが春秋二季の、月々の命日は知らず、、この奥の院は、長々とをゆるく畝の上にらした、処々、、草々の茂みに立ったしるべの石碑を、杖笠を棄ててんだ順礼、しゃの姿に見せる、それとても行くともるともなくとして独りむばかりで、往来の人はどない。
またそれだけに、奥の院はである。を桂川の上流に辿ると、迫る処のたるはもとより古木大樹千年古き、の幹も根もそのまま大巌に化したようなのがとえて、ち石門砦高く、無斎式、不精進の、わけては、たりとも、がたくり、ふらふらと道わるを自動車にふんぞって来た奴等を、目さえいだかと驚かれる、が、慈救の橋は、易々とづきで、にかな境内へ、通行を許さる。
(『遺稿より』より一部抜粋)