ぶらり文学散歩:岡本綺堂編 案内人・勝野美葉子、Philo

岡本綺堂は、明治時代に活躍した劇作家、小説家です。綺堂の出世作であり、新歌舞伎の代表作としても知られているのが、『修禅寺物語』です。

鎌倉時代の修善寺を舞台に繰り広げられる1幕3場の戯曲(演劇の脚本)で、修善寺に幽閉され非業の最期を遂げた鎌倉幕府の2代将軍・源頼家と、頼家からお面を作るように依頼された面作師・夜叉王とその娘たちの物語です。

修禅寺物語は、1911年(明治44年)1月に発表され、同年5月に2代目 市川左團次の夜叉王にて初演を迎えます。その後、高島屋 市川左團次家のお家芸として、「番町皿屋敷」などと並び「杏花戯曲十種」に加えられることとなります。

史上初の歌舞伎の海外興行でも上演された他、1927年には、パリ・シャンゼリゼ劇場でフランス人の俳優によっても上演されました。上演には、パリ在住の日本人たちの協力もあり、舞台背景や公演のパンフレットは藤田嗣治がデザインを手がけました。 

後に綺堂自らの手で小説化され、何度か映画やテレビドラマ化もされました。さらに、綺堂の作品を原作とした清水脩作曲のオペラ『修禅寺物語』は、團伊玖磨作曲の『夕鶴』と並び、戦後日本の創作オペラの先駆けともなりました。

これら一連の大ヒットにより、修善寺温泉の名が全国に広がることとなりました。

明治44年の明治座での公演の様子。右から、市川左升の僧、市川左團次の夜叉王、市川市十郎の春彦、市川壽美藏のかつら、市川莚若の楓(安部豊 編『舞台之華』,演芸画報社,大正1. 国立国会図書館デジタルコレクション)

執筆のきっかけとなったのは1908年(明治41年)、修善寺温泉での滞在中でのこと。その時の様子は、随筆集『猫やなぎ』に書き残されています。

私はこゝへ來てから指月ケ岡にある賴家の墓には二度參詣して、笹龍膽の紋を染めた小さい幕の紫の色がやゝ褪めかゝつてゐるのを寂しく眺めながら、薄命な源氏の貴公子のむかしを忍んだこともあるので、その面と賴家とを結びつけて色々の想像や感慨に耽つた。
(略)
どんな人がどんなところで彼の面を作つて、どういふ人の手を經て賴家の手に渡つたか、そんなことを考へてゐるうちに、職人盡の繪にあるやうな昔の職人の姿がわたしの眼の前にうかび出した。

随筆集『猫やなぎ』


「頼家の墓」は、修善寺温泉街南側の丘の上に位置しています。正面には、「征夷大将軍左源頼家尊霊」と刻まれた供養碑が建っています。これは、1704年(元禄16年)に当時の修禅寺住職・筏山智船が頼家の500周忌にあたり建てたものです。裏側にある小柄な五輪塔が頼家の墓です。また、墓のすぐ隣には頼家の母・北条政子が頼家の冥福を祈り建立した経堂・指月殿があります。

頼家の墓の正面。手前にあるのは、頼家の500周年忌に建てられた供養碑。
供養碑の裏には小柄な3基の五輪塔が並び、源頼家と側室・若狭局、嫡男・一幡のものだと伝えられている。

綺堂は、『修善寺物語』の発表後、10年越しに修善寺温泉を再訪します。その際の様子と修善寺温泉の変容ぶりが、随筆「春の修善寺」には丁寧に描かれています。

かつての修善寺温泉の姿やその変化を感じながら、温泉場を散策してみるのもおすすめです。



掻き消された若き将軍の足跡 – Philo

鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』には頼家が修禅寺に配流の身となってからの記述は少ない。まずは1203年(建仁3年)9月、鎌倉から伊豆国への下向が三百騎以上の随兵を引きつれた道行きであったこと。後に頼家は親しい家臣たちを呼び寄せたがっているので、この随兵は護衛である以上に見張りとしての役割が強いと推察される。その後11月に頼家が母・北条政子と弟・実朝に宛て「深山の生活が退屈なので、日頃召し使っていた近習を呼び寄せたい」と手紙を送ったという記述がある。この願いは叶えられず、しかも政子は「以後は、手紙も送るべきではない」と返答している。そして次には翌年7月、頼家の死があっさりと報じられる。病死なのか殺害されたのか、その死因すら記されていない。『吾妻鏡』は頼家の父・頼朝の死についても、その近辺の頁が欠落しており、経緯や死因を伝えていない。その不自然な沈黙には編纂した北条家の意図を感じずにはいられない。一方で、同時代の京の僧侶・慈円は『愚管抄』において、頼家が浴室にて刺客に襲われ、奮戦するも凄惨に暗殺されたと伝え聞いた旨を書き記している。伝聞であるため真相とは言い切れないが、当時都ではそう噂されていたことがうかがわれる。また修禅寺や光照寺に伝わる面には、頼家が毒殺未遂に会ったことを政子に訴えようとした伝説も残る。岡本綺堂『修禅寺物語』は修禅寺に伝わるその面を着想の元としている。

頼家は失意の内に鎌倉を追放され、修禅寺で暗澹たる日々を送り、無残に殺害された。そう思わせる記録が多い一方、修善寺に足を運ぶと、救いとなるような伝説を見出すことができる。かつて月見ヶ丘にあり、今は修善寺橋のたもとに移築されたという「愛童将軍地蔵尊」には、頼家がこの地の子供たちと遊んでいたという言い伝えが記されている。配流の際わずか22歳の青年だった頼家、陰謀渦巻く鎌倉を忘れ、束の間でもこの地で子供たちと戯れ、温泉で癒されていてくれたら——と願わずにはいられない。

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修善寺温泉・住民発のローカル文芸マガジン『湯文好日』編集部です。様々な文芸作品を通じ、 季節や時代を超えて、 修善寺温泉を楽しんでいただけるようなコンテンツを発信しています。

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