吉田絃二郎は、佐賀県出身の小説家・随筆家です。日本近代文学の大正・昭和初期のベストセラー作家であり、戯曲や童話、評論など幅広い分野で活躍しました。執筆活動のかたわら早稲田大学で英文学・英語の講師を務め、井伏鱒二は教え子の一人でした。
作品の多くは教科書にも採用され、代表作である随筆集『小鳥の来る日』は200版を越えて重版されるほど。同作の「修善寺行」に「修善寺たより」、「修善寺風景」、『伊豆の春』 、『わが詩わが旅』など、数多くの作品に修善寺や伊豆が登場します。また、絃二郎の妻であり俳人の明枝も、修善寺で数多くの句を残しました。
〈吉田夫妻と修善寺温泉〉
吉田夫妻は1916年(大正5年)頃から毎年の晩秋初夏を修善寺温泉で過ごしました。第二の故郷のような存在となったこの地を、「修善寺に来るたんびに、あの鐘(修禅寺の鐘)の聲を聴いて、「久しぶりで静かな山のまちに帰ってきた!」といふやうな感じを抱かせられるのでる」、「學生時代から修善寺の温泉に来てゐるが、今では宿の人とは勿論、町の誰彼とも顔馴染みになつてしまつたので、こゝにゐる間はあまり旅にゐるやうな心細さを感じなくなつた」と、書き残しています。
夫婦の定宿であった菊屋の主人・野田氏一家とは特に交流が深く、菊屋で飼われていた猟犬を絃二郎が譲り受けたというエピソードも。好んで宿泊していた「萩の間」の跡地には句碑も建立されました。
1937年(昭和12年)に明枝夫人が享年47歳と若くして亡くなると、夫人たっての希望で修善寺温泉を一望できる塔の峰(鹿山)の頂上に遺骨が埋葬されました。同年、絃二郎は著作本と地域の子供たちに読ませたいと選書した書籍、そして小さな図書館を修善寺小学校に寄贈しました。この文庫は、「吉田文庫」と名付けられ、修善寺小学校の校庭に建設されました。その後、名誉修善寺町民でもあった絃二郎は、1961年(昭和36年)に71歳で逝去。町葬の礼もって送られ、遺言に従い明枝夫人と同じ墓に分骨埋葬されました。
このようなことから、この地域では絃二郎を「修善寺をこよなく愛した作家」と語る人も少なくありません。

寄贈当初の吉田文庫。校舎建て替えの都合で取り壊され、その後、場所を変えて復元工事がなされた。
絃二郎寄贈の書籍たち。徳富蘆花や有島武郎の全集、横光利一の著書のほか、ドストエフスキーの著作やレ・ミゼラブル、宗教関連の書籍などが並ぶ

〈絃二郎と達磨山 ・炭焼きの老人〉
絃二郎の自宅(東京都・武蔵野)の庭には、シャクナゲとムラサキツツジとが植えられ、初夏には美しい花を咲かせました。シャクナゲは天城から、ツツジは達磨山から移植されたものでした。
達磨山は伊豆を代表する大型火山の一つで、ハイキングコースも整備されています。山の麓に位置するレストハウスやキャンプ場は駿河湾越しに富士山を眺められることから絶景スポットとしても人気です。
絃二郎は達磨山とそこにすみ営む炭焼きの老人に深い思い入れ持っていました。老人と出会ったのは、夫婦で修善寺通いをしていた頃のこと。旅館に滞在していた絃二郎を訪ねてきたのをきっかけに交流が始まりました。その後、絃二郎は修善寺を訪れる度に、お酒やお菓子、お茶を手土産に老人を訪ねるようになります。
老人の素性を知る者は町にはおらず、いつからともなく伊豆に来て、達磨山に小屋を建て暮らし始めたそうです。日々木を切り窯で炭を焼き、時折修善寺の町に下りてきては炭を売ったお金で生活に必要なものを手に入れて。雨の日には万葉集を読み……少しずつ山を移動しながら暮らしていたそうです。絃二郎はその素朴で孤独な暮らしぶりを、湖畔の森の中に小屋を建て自給自足の生活をしていた『ウォールデン 森の生活』の著者・ソローに重ね合わせてもいます。

達磨山からツツジと駿河湾越しに望む、雪化粧をした富士山。日本画家・横山大観が好んだ描いた景色でもあり、ニューヨーク万博(1939年)に出品された富士山の写真の撮影地でもあります。温泉場から約9km、自家用車で約13分・バスで約20分ほど。(画像提供: Yoshitaka / PIXTA)
〈絃二郎と松尾芭蕉〉
絃二郎の随筆は、「その心境に於いて松尾芭蕉の静寂或は西行法師のの世界にあこがれるところの見える人」と評されることもありました。特に松尾芭蕉に対しての思い入れが強く芭蕉を題材にした作品も数多く存在します。教え子の井伏鱒二は「吉田絃二郎の人間性」のなかで、講師時代の絃二郎を「先生は講義の時間にときどき恋愛や芭蕉や歎異抄やマーカス・オーレリウスや永遠やキリスト等に関する所感を述べ、朗読調のでもつて青春の私たちをうつとりさせるのであった。」と振り返ってもいます。
1950年(昭和25年)には、芭蕉の『奥の細道』の随想と注釈に自身の創作3作品を収録した『おくのほそ道の記』が実業之日本社より出版されています。同書では、「芭蕉の俳諧、殊にその紀行文に親しみを感じ日本の自然を愛する人が一人でも多くなればありがたいことであると思ふ」と述べています。
また、芭蕉の墓について、「質素な小ひさな墓である。ゆかしいかぎりである。」と評し、夫婦の墓も同じように小さく伊豆の赤松山に建てたいとも綴っています。そしてその13年後に、生前の理想に叶った墓に眠ることとなりました。
