ぶらり文学散歩:島木健作編 案内人・勝野美葉子

島木健作は、明治末期から昭和前期にかけて活躍した北海道出身の小説家で、転向文学の代表的な作家としても知られています。

転向文学とは、昭和初期に共産主義思想を放棄した作家らによる転向を主題とした作品のことを指します。

〈小説「赤蛙」〉

島木は10代後半に結核を煩い、30代後半には気管支炎を、その後再発した結核にも苦しむなど、島木は生涯にわたり長い闘病生活を送りました。「赤蛙」は療養を目的に修修善寺を訪れたのは1944年(昭和19年)の実体験を元に書かれました。
当時の自身の様子や滞在について、島木は作中で次のように書いています。

寝つきりに寝つくやうになる少し前に修善寺へ行つた。その頃はもうずゐぶん衰弱してゐたのだが、自分ではまだそれほどとは思つてゐなかつた。少し体を休めれば、ぢきに元気を回復するつもりでゐた。温泉そのものは消極性の自分の病気には却つてわるいので、私はただ静かな環境にたつたひとりでゐることを欲したのである。修善寺は前に一晩泊つたことがあるきりで、べつにいい所だとも思はなかつたが、ほかに行くつもりだつた所が、宿の都合がわるいと断つて来たので、そこにしたのだつた。

そもそも乗り気ではなかったことに加え、結核を患っていることもあってか実にひどい部屋に通され、大変不愉快な気分であったと不満気な文章が続きます。

島木が滞在した部屋は、日中でさえ本を読むのも苦労するほどに一日中陽も射さず、風向きの烏合でトイレの臭いもひどく「怒りがムラムラと発して来てどうにもならなかつた。」「不機嫌を通り越して毒念ともいふべきものがのた打つて来た。」と書き残すほど。堪え性のなさは病気が手伝っていたとも述べていますが、相当に悪い部屋であったことが窺い知れます。

部屋にいても仕方がないということで、は食事の時間以外を外で過ごそうと、範頼の墓がある小山や公園、梅園などに足を運ぶようになります。

ある日、温泉場の中心を流れる桂川沿いを上流まで散歩した帰り道、川辺で腰を下ろして無心で川を眺めていた島木の目に一匹の赤蛙の姿が飛び込んできました。中洲から対岸へ渡ろうと一生懸命に泳いでは押し流され、這い上がり、何度もそれを繰り返す赤蛙を最初は小馬鹿にしていた島木ですが、徐々に心を奪われていきます。赤蛙は川の流れに翻弄され、最後には精魂尽きて波間に消えていってしまいます。

そんな赤蛙の姿を、自身の心境とともに臨場感ある語り口で書いた作品が「赤蛙」です。本人は修善寺に滞在した時点では少し休めば回復すると考えていたようですが、そのわずか翌年、太平洋戦争終戦から2日後に島木は41歳で逝去します。そして、「赤蛙」は、遺作として発表されることとなりました。

そして、後年、修善寺温泉場の中心を流れる桂川上流・滝下橋の近くの公園が整備されると、この作品にちなんで「赤蛙公園」と名付けれました。

温泉場から川上に位置する赤蛙公園。春はお花見スポットとして夜まで楽しむことができ、6月にはホタル祭が開催されてにぎわう。
公園内に設置されている看板。設置者の遊び心が垣間見える。

「赤蛙」の他にも、島木はほとんど寝たきりとなった約1年間で「黒猫」や「むかで」「ジガ蜂」などの小さな生きものたち題材にした散文詩をいくつも残しました。

その全てが「生」や「運命」、「死」を主題としており、実体験を元に書かれたと言われています。これらの作品について友人であった小林秀雄は、「言はば死をした者が知る生の感じ、と言つた風なものが、身邊の小動物に托されて鮮やかに現れてゐる。」と回想文「島木君の思ひ出」の中で書いています。

〈島木の生きた時代と転向文学〉

1903年(明治36年)に生まれた島木は、日露戦争勃発と同時に生後2歳で父と死別、幼い頃から家計を助けるために苦学します。1925年(大正14年)に東北帝国大学法学部に入学するも、翌年には中退し、農民運動(農民が自らの社会的・経済的地位向上のために行う組織的な社会運動)の他、日本共産党に入党し左翼運動に関わるようになります。

その後、日本共産党などの関係者千数百名が検挙された三・一五事件の際に島木も検挙され、再び政治運動に携わる意思はないと転向宣言をします。肺結核に苦しみながら服役期間を過ごした後に、転向作家として小説を書き始めることとなります。

この頃、大正末期頃から盛り上がりを見せていたプロレタリア文学(社会主義思想を背景に労働者や貧困層(プロレタリア)の労働問を取り上げた文学)も弾圧により衰退していきます。一部の作家は島木のように転向宣言をし、その〈転向〉を主題に据えた作品や転向した作家によって書かれた作品が転向文学と呼ばれています。その代表作の一つが1934年(昭和9年)に島木が発表した「癩(らい)」でした。

1937年(昭和12年)に34歳で鎌倉に転居すると、小説家・高見順や小林秀雄、伊豆ともゆかりの深い川端康成らが創刊した同人雑誌『文學界』に加わり、「鎌倉文士」「鎌倉組」の一員となります。同年に発表した長編『生活の探求』はベストセラーとなりました。その2年後に3ヶ月に及ぶ満洲旅行のルポタージュ『満洲紀行』を発表、1945年(昭和20年)に亡くなるまで、島木は満洲を書き続けます。

高見順は「島木健作の死」の中で、この激動の時代を生きた島木とその作品について、「刻々に彼は追い詰められて行つた。しかし執拗に書いた。陽の当たらぬ忌はしい場所にはえた植物が、おまけに絶えず雨風にいためつけられ、葉をのばすと傍らから摘まれながら、なほも芽を出して生きねばならぬ、その生命の約束、その勤勉、そのバカなそして必死の営み、——彼の仕事はそつくりそれだつた。」と振り返っています。

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修善寺燕舎の店主。生まれ育った修善寺地域の活性化を目指し、お土産物などの商品開発やイベントの企画運営など、様々な活動に取り組んでいる。

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